マッシュのオモハラおしゃれ散歩
2015.09.16

ファッション業界人が語る“私と原宿・表参道”(7) 石津祥介さん

原宿・表参道と切っても切り離せないのがファッションです。そこで、このコーナーでは、この地域を舞台に活躍するファッション業界関係者にスポットを当て、街との係わりやお仕事について語っていただきマッシュ!

今回のゲストは、な、な、なんと!
日本のメンズファッション界の重鎮、石津祥介さんです!

石津事務所 代表 石津祥介さん

石津祥介さん石津祥介さん

石津祥介さん
1935年岡山市生まれ。ファッションディレクター。
明治大学文学部中退後、桑沢デザイン研究所卒。その後、婦人画報社「メンズクラブ」編集部を経て、1960年(株)ヴァンヂャケット入社、主に企画・宣伝部と役員兼務。
1965年の写真集「TAKE IVY」著作。日本メンズファッション協会常務理事、日本ユニフォームセンター理事歴任。石津事務所代表として、アパレルブランディングや、衣・食・住 に伴う企画ディレクション業務を行う。VAN創業者、石津謙介氏のご長男。

VANの移転で青山がファッションタウンに!

かつて日本でアイビーファッションの大ブームを巻き起こしたブランド、VAN。このブランドは石津祥介さんのお父様である故・石津謙介さんが創業したファッション企業、ヴァンヂチャケットのブランドでした。特に現在50歳代以上の男性にVANが与えた影響は計り知れません。

今回のゲスト、石津祥介さんは、謙介さんや仲間たちと一緒に、さまざまな製品やサービスを開発し、アイビーブームだけでなく、その後の日本のメンズファッションに大きな貢献をした方なのです。VANがブームを起こした当時のオフィス、現在の石津事務所も所在は青山・表参道エリア。さて、このエリアとの関わりからお話をお伺いしましょう。

1954年、石津祥介さんが初めて上京した時に撮られた一枚。右が石津謙介さん、左が若かりし頃の祥介さんです。(写真提供/石津事務所)

石津さん:
私たちは東京オリンピックの前年の1963年に、日本橋から青山にオフィスを移転しました。当時、都内にもクルマが増え始め、繊維関連の問屋街である日本橋も渋滞だらけでクルマが動けず不便をしていたのです。そこで親父が注目したのがこの青山・表参道エリアでした。
このあたりはオリンピックを控え、開発が進んでいました。便利のいいエリアになるだろうし、VANはスポーツ要素もあるブランドでしたから、スポーツ施設のある青山はブランドイメージとしてもいいと考えたそうです。

「青山は(高さが)高い位置にある場所だから、上から下にものが流れるように我々のファッションも浸透していくだろう」というイメージも聞かされました。

石津謙介さんについて

石津謙介さん(写真提供/石津事務所) 1911年、岡山県の裕福な紙問屋の次男として誕生。小学生のころからオーダーメイドの学生服を着るほどのオシャレぶりを発揮。その後、明治大学に進学し、このときにファッションや遊びに開花。
1932年に岡山に戻り結婚し、家業の紙問屋の4代目となる。1939年、家族5人で中国の天津に移住し、現地では洋服の製造で成功を収めた。軍属で通訳なども行い、1945年にアイビーのことを教えられて興味を持つ。
1946年、岡山に7年ぶりに戻り、翌年には佐々木営業部(のちのレナウン)で働くようになる。1951年にレナウンを退社し、相棒の高木一雄氏とともに石津商店を創業する。1954年、石津商店をヴァンヂャケットに改組する。
1957年、アイビーファッションとしてのVANを発表。
その後はビジネスが順調に発展し、東海道新幹線の乗務員のユニフォームや、東京オリンピック選手のユニフォームをデザインするなど幅広く活躍。
1978年にヴァンヂャケットは会社更生法の申請を受けVANを離れるが、1983年に自身のブランドKen Collectionを発表。ほかにもブランドの立ち上げ、装いやグルメなど洗練されたライフスタイルにまつわる本を次々に出版。
2005年に逝去。亡くなった時に着用していたのは三宅一生氏から贈られたシャツだった。享年93歳。

東京五輪前の青山はごくフツウの街だった

当時、すでに渋谷はかなり商業地として発達していたと思いますが、なぜそちらを選ばなかったのかを尋ねてみました。

石津さん:
私たちは製品を紳士服店や百貨店に卸していましたが、最初は自分たちでお店を運営していませんでした。そのため、会社を構えるのに、その場所が商業的ににぎやかである必要はありません。現在のアパレル企業は在庫を専門の会社(物流会社や倉庫会社)に預けますが、当時はオフィスと倉庫が一緒になっているのが普通。私たちもそうだったのです。

当時の表参道にはお店が全然なくて、少ないながらにあるのはごく普通の商店ばかり。そして裏道へ入るとそこは住宅街。けれども、親父は格別に表参道を気に入っていました。
親父は中国でも仕事をしていましたから、海外の風景も知っていた。だから、日本的ではなくヨーロッパ的な雰囲気を表参道から感じていたようです。商業的な発達とは別に、すでに迎賓館や絵画館がありましたから、上品なエリアというイメージもありましたしね。
最初は表参道でオフィスの入居先を探すよう命じられて、建築中だった明治神宮前駅の交差点の角のビル(現在ロッテリアの入店する八角館ビルの場所)を見に行きました。しかし、ここは大きな交差点の角でトラックが出入りするのに不便だし、構造上も搬入搬出がしにくいために断念。

当時の社長室の様子。写真は創業者、石津謙介さんです。(写真提供/石津事務所)

最初のオフィスは石橋ビルに決定

石津さん:
そして最終的に決まった入居先が南青山3丁目交差点角の石橋ビル(AYビル)でした。もともと、このビルは東京オリンピックの際に海外の報道関係者の宿泊施設として認可を得ていたそうです。内見したときも各部屋はシングルルームに仕切られていました。が、なぜかこのビルが本来の用途に使われずに貸し出されたのです。

1階は喫茶店、2階はビル名の由来でもあるアーデン山中さん(※1)の美容室、6階には田中一光さん(※2)の事務所もありました。そして7階には大家さんのお住まい。地下は飲食店があり、クラブやバーも入っていたんです。
なかでも大阪で知られたスタンディングバーの“かめい”が、“かめい東京”を営業。ママと同世代だった親父は行きつけでしたが、社長がいるからと若いヴァンヂャケットの社員は敬遠していましたね(笑)。

※1:アーデン山中豊子さん:日本の美容業界をけん引した人物。国内外の著名人の美容を多数手掛けた方です。 ※2:田中一光さん:昭和から平成にかけ活躍したグラフィックデザイナー。国内外の受賞を多く、西武百貨店の包装紙、ロフトのロゴを手掛けたほか、無印良品のアートディレクターも務めていました。

青山でVAN社員が神輿を担いだ!

当時の思い出で石津祥介さんの印象に残っているものは?

石津さん:
何年のことだったか、もう覚えていませんが、当時の町会長から、お祭りの神輿を担いでほしい頼まれたことがありましたね。もう街に担ぎ手がいないから、VANの人たちで担いでもらえないかというご相談でした。それならばと、社員で担ぎました。そのときは全員法被ではなく、VANのTシャツで参加したんですよ。

石津さん親子を始め、社員が集まっての仕事風景。石津さん親子を始め、社員が集まっての仕事風景。(写真提供/石津事務所)

日本のファッション界の発展に非常に大きな役割を果たしたVANですが、ヴァンヂャケットの前身、石津商店設立は1951年。そしてアイビーファッションとしてVANが発表されたのは1957年です。1960年、アイビーモデルが市場に流れ始め、その年に石津祥介さんはヴァンヂャケットに入社されました。

祥介さんは編集者からVANのスタッフに

ではここで、石津祥介さんの経歴とVANについてお話を聞いてみましょう。石津祥介さんは雑誌メンズクラブの編集者を経て、VANに参画。メンズクラブ時代からアイビーファッションには注目をされていて、その魅力を誌面やVANの製品を通じて伝えようとなさっていたようです。

あの石原裕次郎さんのスタイリングも!

石津さん:
私はヴァンヂャケットに入社する以前に男性ファッション誌、メンズクラブ(当初の誌名は“男の服飾”)の編集部で働きました。
この当時のファッションはいまのようにヤング層を対象にはしていませんでした。当時は開襟シャツやマンボスタイルなどが流行。編集作業のほか石原裕次郎さんのスタイリングもしましたね。当時の編集部は部員が3人しかいなかったけれど、季刊でしたから、こなせていたのです。

石津祥介さんと仲間がVANを盛り上げた

メンズクラブ在籍中、アイビーファッションが学生に人気として紹介したことがありました。そのとき慶応大学のアイビーリーガース(アイビー愛好会)の取材で出会ったのが、メンバーのくろす君(※3)。
のちに、山形屋に就職していたくろす君を誘って、ヴァンヂャケットでアイビーファッションを作り始めたのです。慶応の学生ではなかったけれど、穂積和夫さん(※4)も当時知り合ったお一人ですね。

※3:くろすとしゆきさん:服飾評論家。当時はVANの製品開発に携わったほか、メンズクラブに寄稿も行い、ブームを支えていらっしゃいました。 ※4:穂積和夫さん:アイビーリーガースのメンバーだったお一人。当時から現在までイラストレーターとして活躍中。ファッションのみならず、幅広いジャンルのイラストを描かれています。

テリー伊藤さんも大ファンだったVAN

若者のあこがれの的だったVANだけに、著名人にも愛用者が多数いました。たとえばテリー伊藤さんもそのお一人として知られています。ほかにはどんな方が?

石津さん:
当時の俳優さんや著名人の多くがVANを愛用していました。マイク眞木さん布施明さんミッキー・カーチスさんなんかはよく着てくれていました。ヒゲの殿下として知られる三笠宮寛仁さまは、VANを扱っていたテイジンメンズショップのお得意さんでしたから、愛用してくださっていたと思います。

当時のメンズクラブの誌面から

VANと密接だったメンズクラブ。当時のファッション誌が大人向けだったことが伝わる表紙。(資料提供/石津事務所)


当時の誌面では石津祥介さんがニューヨーク、パリ、ミラノの流行のシルエットを紹介なさっています。また石津謙介さん、祥介さんをはじめ、VANの関係者のスナップも掲載。現在もファッション誌で定番となっている読者スナップの原点は石津さんたちがメンズクラブで手掛けた企画なのです。(資料提供/石津事務所)

石津さん:
1965年くらいまでメンズクラブではVANの商品を数多く掲載していましたが、最初のうちはアイビーのイメージが付いていないものでした。
1957年からアイビーテイストの製品をつくり、それが数年して売れ出し、アイビーブームに火が付いたのです。メンズクラブの誌面では、1962、1963年頃にはアイビーの言葉が飛び交っています。
1965年にアイビースタイルについてまとめた本「TAKE IVY」を発売しますが、振り返ると全盛期は1961年から1963年頃でしょうね。

1970年代には青山(東京)の社員は約70人いました。1970年代半ばからは売り上げが倍々に。VANで儲けようという発想ではなく、ブランドがライフスタイルを広げるキーと考えていたのです。社員がやりたいといえば、「おもしろい!やってみなよ!」そんな社風でした。
社長や役員の了承は必要でしたが、これはあくまで形式的なものに過ぎず、社員が発想して上がってきたおもしろいものにはハンコを押していました。このころの社員は休みの日も会社へ行くんです。だって、会社に行くとビリヤードなど面白いものが置いてあるものですから(笑)。

現在のブルックスブラザーズのビルの上と本社ビル(AYビル)の上にVANの看板が上がっていました。「71年、72年頃のことで、当時は青山の街が随分うるおっていました」と石津祥介さん。(写真提供/石津事務所)

VANの仰天伝説!

とにかく話題に事欠かなかったVANには、いまでは驚くようなトピックスがあふれていました。ここでは石津祥介さんから伺った伝説をいくつかご紹介しましょう。

伝説その1 「海外にも認められたTAKE IVY」

こちらが2011年に復刻された「TAKE IVY」
1960年、石津さんをはじめとするスタッフがアメリカ東海岸で本物のアイビースタイルを取材し、日本に紹介したものです。なんと!これが数十年経ったのち、海外のファッション専門家の間で大きな話題となり、海外のオークションにて数千ドルで取引されることに。
その勢いにのり、2010年にはアメリカで英語版が発売されました。その後、オランダ版、韓国版も発刊されています!
復刻版はこちらから購入可能です。
(資料提供/石津事務所)

マッシュのワンポイント
「アイビー」(植物の“つた”の意味)がアメリカの東海岸の学生のファッションを意味する言葉として使われていたのは日本だけです。つまり、もともとは日本でだけ通用する言葉だったのですが、TAKE IVYの影響により、現在では海外のファッション関係者には、日本と同様にアイビーという言葉が普及しています。

伝説その2 「VANはカーレースとも密接だった」

1963年日本グランプリ第一回に石津祥介さんの弟である石津祐介さんがドライバーとして参加。このときはご自身のクルマ(中古のオースチン)での参戦だったそうです。ファッション企業がレースに関わるなんて、これが日本初。
第一回の優勝者は式場 壮吉(しきば そうきち)さんでした。そして、2回目以降、VANは日本グランプリの協賛を行っています。また、VANがレーサーの生沢 徹(いくざわてつ)さんのスポンサーとなりレース用スーツを提供したこともありました。社内にはゴーカート部もあったんだとか!
写真は石津祥介さんやVANの仲間たちが鈴鹿サーキットへ観戦に出かけた際に撮影されたものです。
(写真提供/石津事務所)

伝説その3 「ユニークな取り組みを次々に行う」

「とにかくおもしろいことはなんでもやってみろ!」。当時のVANはそんな石津謙介さんの遊び心をそのまま反映した会社でした。そのため、青山三丁目交差点から表参道駅周辺でVANの実験的な取り組みが多数行われました。
たとえば、1972年に青山通り沿いに設立されたVAN 99ホールはその代表例。座席はわずか99席。もともとは社内のイベントや展示会を行う施設でしたが、演劇や落語、音楽など若者のための幅広いカルチャー発信地となりました。三宅一生氏のショーが行われたこともあります。また、当時としては画期的だったエスプレッソを提供するカフェ エスプレッソ356も併設していました。
(写真提供/石津事務所)

現在、表参道・青山がファッションの中心地となるきっかけをつくったVANはまさに伝説と言っていいでしょう。そして、その立役者だった石津祥介さんはこのエリアの開拓者なのです。VANを知らない世代も、愛用していた世代も、その想像以上の奥深さに驚いたのではないでしょうか。

今回の取材でお話を聞くことができたのは石津祥介さんとVANの大いなる伝説のごく一部に過ぎません。また、ぜひ改めてもっともっとお話をお聞かせくださいね!


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