表参道 歴史にゃんぽ
2015.08.20

渋谷区で60年、音楽の素晴らしさを広めた98歳の先生

渋谷区は「自然と文化とやすらぎのあるまち」という想いを渋谷区憲章に掲げています。そして将来の文化の担い手となる子ども達に、音楽の素晴らしさや演奏する楽しさ、ひとつのことに熱中する充実感を伝えて行きたいと願っているんだにゃん。

今回は、30年間渋谷区の小学校の音楽の先生として活躍され、その後も渋谷区青少年吹奏楽団を立ち上げ、併せて60年間も渋谷区に音楽を広げる活動をされた、現在98歳の松﨑フミ子先生から、色々なお話をお伺いしたんだにゃん!

松﨑フミ子先生

松﨑先生は、昭和24年(1949年)から昭和54年(1979年)までの30年間、渋谷区立大向(おおむかい)小学校で音楽の先生としてお勤めになりました。

大向小学校を定年退職した後は、渋谷区青少年吹奏楽団を立ちあげられ、それから30年間、93歳になる2010年まで、事務局長としてご活躍されたんだにゃん。

大正6年(1917年)生まれの松﨑先生は今年98歳。今もとても美しくてチャーミングな先生から、素敵なお話を沢山お聞きすることが出来たにゃん。

松﨑フミ子先生平成27年(2015年)3月、98歳の松﨑フミ子先生

松﨑先生ご夫妻が昭和62年(1987年)に自費出版した『三台のピアノ―親子三人の音楽人生』松﨑先生ご夫妻が昭和62年(1987年)に自費出版した『三台のピアノ―親子三人の音楽人生』


大正・昭和・平成を生きた98歳の音楽の先生

松﨑先生は大正6年(1917年)、四国の愛媛県松山市で生まれ、戦前はご主人と共に松山で音楽の先生をしていました。

戦争中はご主人が戦地に招集されましたが、戦後復員し、その後もご夫婦共に、松山で音楽の先生としてご活躍でした。 昭和22年(1947年)には松﨑先生が指導した小学校の児童達が、NHK全国小学校合唱音楽コンクールに四国代表として出場したほどでした。

でも昭和24年(1949年)、松﨑先生のご家族は一念発起して上京、東京で新たな生活をスタートしました。

松﨑先生は戦争中、松山市でまだ幼なかったお嬢さんと共に空襲を体験し、松﨑先生のご主人も、戦地で何度も死にそうな体験をしたそうです。

松﨑先生のご主人は、音楽に対する熱い想いが抑えられなくなり、「どうせ戦争で一度死んだ身であることを考えれば、残りの生命は何に使っても良い。それならもう一度一から音楽の勉強をやり直すべきだ。それには東京に出る以外にない」と考えるようになり、松﨑先生もそのご主人の考えに従ったそうです。

松﨑先生のご主人は東京に上京すると、中学校の音楽の先生をしながら音大の先生や音楽家の方々の指導を受けました。そして音楽の勉強を続けながら、ご自身も多くの方々にピアノの指導をしました。

その中には一人娘の伶子さんもいました。伶子さんは幼い頃からその才能を開花し、海外でもご活躍、その後日本を代表する音楽家になり、現在もご活躍です。


東急本店のある場所に、サツマイモ畑がある小学校があった!?

松﨑先生が教鞭をとられた渋谷区立大向(おおむかい)小学校は、昭和39年(1964年)まで、道玄坂の現在東急百貨店本店のある場所にありました。

松﨑先生のお話では、昭和20年代は、渋谷駅から大向小学校の校門が見えたそうです。 今はビルに遮られ、渋谷駅から東急百貨店本店はまったく見えませんが、当時は建物も低く、見晴らしがとても良かったにゃん。

昭和24年(1949年)に松﨑先生が大向小学校に赴任した時、元の校舎は空襲で焼けてしまっていたので、屋根はトタン葺き、やっと雨露をしのぐ程度のバラックのような校舎だったそうです。 音楽の授業をしようと思っても、保護者から寄付していただいたアップライトピアノがやっと一台あるきりでした。

でも当時の大向小学校の先生方は、「校舎はボロでも山の手の学習院といわれるくらいの品の良い学校だ」という誇りを持って児童達を指導していたそうです。

そして当時の大向小学校の森宗男校長先生は、授業が終わると校舎の周りを片付けたり、校庭の隅でサツマイモを作ったりしていました。

昔、東急本店のある場所には松﨑先生が教鞭をとった大向小学校がありました
昔、東急本店のある場所には松﨑先生が教鞭をとった大向小学校があり、そこには校長先生が栽培するサツマイモ畑がありました。

当時はまだ戦後の食糧難が続いていて、子ども達はいつもお腹をすかせていました。校長先生は少しでも子ども達の栄養になればと、教務の合間に校庭の隅でさつまいもや菜っ葉を育て、給食のおかずの足しにしていたそうです。

優しい校長先生だにゃー。松﨑先生も、森校長先生はとても温かいお人柄で、それでいて職員をひっぱっていく熱血漢の校長先生だったとおっしゃっていたにゃー。


”美しい友情の花”と”誠の愛と知の心”

松﨑先生は大向小学校に赴任し、「音楽の原点や楽しさを全校児童に広め、一人一人が生涯音楽を好きになって欲しい」という想いで音楽指導を行いました。
そしてその中でも特に、器楽教育に力を入れました。

合唱や縦笛や横笛の指導で、子ども達に腹式呼吸やタンギングをしっかり教えると、子ども達の声や演奏が格段に良くなりました。

その子ども達の変化に保護者の皆さんも驚き、音楽教育の効果を理解してくれました。
そればかりか私達も音楽を楽しみたいと、PTAのママさんコーラス部が発足し、こちらも様々なコンクールに出場するほどになりました。

大向小学校で音楽の先生をしていた頃の30代の松﨑フミ子先生
大向小学校のPTAコーラス部(昭和28年・1953年)
昭和54年(1979年)の大向小学校の鼓笛隊昭和54年(1979年)の大向小学校の鼓笛隊

松﨑先生は、校長先生や同僚の先生方、そして保護者の方々のご理解とご協力を得ながら、昭和31年(1956年)にクラスごとの鼓笛隊を作りました。 当時大向小学校は1学年4クラスあったので、全校で24もの鼓笛隊が出来たんだにゃん。

凄いにゃん!こんな小学校、聞いたことがないにゃん!

松﨑先生は子ども達に小太鼓の奏法やリズム打ちを指導しました。全員にマウスピースを持たせると、全校児童全員がトランペットやクラリネットやフルートが吹けるようになりました。そして鼓笛隊により、学校がひとつにまとまるようになりました。

学校がひとつにまとまると、子ども達の心に愛校心が育ち、先輩から後輩へこの伝統を守り、受け継がなくてはならない、という責任感が育ちました。

大向小学校の吹奏楽団は、NHKや学研から取材が訪れるようになり、文部省製作の教育映画によって、日本中の小学校の音楽教育のお手本になりました。

そして昭和33年(1958年)に東京で開催されたアジア競技大会で、開会式で演奏を披露する学校のひとつに選ばれました。

敗戦から13年、一面の焼け野原から復興した東京で行われた東京アジア大会は大成功をおさめ、この成功により昭和39年(1964年)の東京オリンピックの誘致が決定したんだにゃん!

大向小学校は昭和39年(1964年)、東京オリンピックによる区画整理により、神南にある渋谷区役所の隣に移転しました。そして昭和42年(1967年)、大向小学校のあった場所には東急百貨店本店が建ちました。

大向小学校が渋谷区役所の隣に移転したことで、渋谷区役所の職員の方々も、大向小学校の鼓笛隊の練習風景や演奏を目にする機会が増え、松﨑先生が進めようとしている音楽教育に対して理解を深めるようになりました。そしてこのことが、後の渋谷区の音楽事業にも大いに役立つことになりました。

昭和51年(1975年)には大向小学校の創立60週年の式典が行われ、森要七校長先生作詞、松﨑先生作曲の「ひまわりのうた」という歌が歌われました。

大向小学校創立60週年(昭和51年・1976年)大向小学校創立60週年(昭和51年・1976年)

『ひまわりのうた』
作詞・森要七 作曲・松﨑フミ子

ここに大向の庭がある そこに芽生えたかぎりのない
美しい友情の花が咲く その花はたえることなく
いつまでもいつまでも ああ大向創立60年

ここに大向の庭がある そこに育てたかぎりない
誠の愛と知の心がむすぶ その心はたえることなく
いつまでもいつまでも ああ大向創立60年

大向小学校はその後、平成9年(1997年)に渋谷小学校と大和田小学校と統合し、同じ場所で神南小学校になりました。
神南小学校になった今も、そしてこれからも、”美しい友情の花”と”誠の愛と知の心”という想いは、大切に伝えてほしいと思うにゃん。

大向小・渋谷小・大和田小が統合し、平成9年(1997年)に創立した神南小学校大向小・渋谷小・大和田小が統合し、平成9年(1997年)に創立した神南小学校


渋谷区の子ども達のための吹奏楽団

松﨑先生は昭和54年(1979年)に大向小学校を退職しましたが、前年の昭和53年(1978年)に渋谷区の子ども達の吹奏楽団『渋谷区青少年吹奏楽団』を発足、以後30年という長い間、事務局長として子ども達の育成に力を尽くしました。

渋谷区青少年吹奏楽団は「渋谷の若者に音楽の輪を広げたい」「音楽を通して情操を高め、協調の精神を養い、健全育成を図る」という想いで生まれた楽団なんだにゃん。

都内初の音楽専用の社会教育館・渋谷区立長谷戸社会教育館(恵比寿西)も出来上がり、渋谷区青少年吹奏楽団はここを拠点に、渋谷区内の小中高校生なら誰でも入団できる吹奏楽団としてスタートしました。
指揮者や指導者に音大の先生などをお迎えし、本格的な音楽指導が受けられる楽団なんだにゃん!

『定期演奏会』『サマーコンサート』『クリスマスコンサート』のほか、代々木公園で行われる『くみんの広場フェスティバル』、『渋谷区成人式』、恵比寿ガーデンプレイスで行われる『恵比寿文化祭』など、渋谷区の音楽文化活動に参加しているにゃん。

また10年に一度、海外演奏旅行も行い、今までにドイツ、チェコ、オーストリアに行ったにゃん。

卒団生はそれぞれ、大学の音楽サークルを続けたり、音大に進学したり、音楽関係の仕事に就いたり、家族みんなで音楽を楽しんだりしていますが、中にはプロの音楽家になった人もいるんだにゃん。

渋谷区青少年吹奏楽団出身の音楽家の皆さん
クラリネット奏者 三界 秀実さん
オペラ歌手(テノール) 大久保 憲さん
ギターリスト 新井 伴典さん
打楽器奏者 窪田 翔さん

夢を持てば、その方向に向かって努力する

今は子どもが少なくなり、渋谷区でも小学校が統合されたり、クラスが少なくなったりで、運動会などの学校行事や部活動などの課外活動がやりにくくなっています。

一人っ子も増えているので、小学校5年生から高校3年生まで団員として参加でき、卒団後も育成会や指導員として活動に参加することができる『渋谷区青少年吹奏楽団』は、子ども達が何年も、まるで兄弟のように育つことが出来る、とても貴重な場なんだにゃん。

それに平成生まれの子ども達が、大正生まれの松﨑先生の凛とした美しさに触れられたのも、とても貴重な体験だったと思うにゃん。
松﨑先生は、平成生まれの子ども達にとっては、ひいおばあちゃんくらいの年代なんだにゃん。子どもたちは「松﨑先生はいつも優しかった。でも先生のお話を聞くときは、いつも背筋がピンと伸びた」と話してくれたにゃん。

そして演奏会が終わると、松﨑先生はいつも子ども達に森永ミルクキャラメルを配ってくれたそうだにゃん。そして森永ミルクキャラメルのパッケージのデザインをしたのは、松﨑先生と同じ松山出身の洋画家・八木彩霞(やぎさいか)さんだと、教えてくれたそうだにゃん。

学校の枠を超え、大勢の異年齢の子ども達が音楽を通じて成長し合える渋谷区青少年吹奏楽団は、とても素敵な楽団なんだにゃん。渋谷区だけでなく、全国の市町村にこんな楽団ができたらいいなあ…、と思うにゃん。

松﨑先生は渋谷区青少年吹奏楽団の他にも、「渋谷混声合唱団」や「渋谷区民音楽のつどい」の発足にも力を尽くされたんだにゃん。
そして渋谷交響楽団と渋谷第九合奏団によって毎年年末に行われる「渋谷区民による第九演奏会」も立ち上げられたんだにゃん。

これらの活動は今も引き継がれ、多くの渋谷区民が音楽を楽しむ場となっています。
そして松﨑先生の想いも、ずっと人々に受け継がれるといいなあ、と思うにゃん。

松﨑フミ子先生80代の頃の松﨑フミ子先生


「夢を持って行動すれば、人間は知らぬ間にその方向に向かって努力していく」
                               ~松﨑フミ子

渋谷区青少年吹奏楽団・第6回定期演奏会(昭和59年・1984年)渋谷区青少年吹奏楽団・第6回定期演奏会(昭和59年・1984年)
渋谷区の成人式で演奏する渋谷区青少年吹奏楽団渋谷区の成人式で演奏する渋谷区青少年吹奏楽団(平成20年・2008年)

渋谷区青少年吹奏楽団HP http://shibusui.grupo.jp/
渋谷区混声合唱団HP http://www.shibukon.com/index.html
第九を歌う!渋谷区民音楽のつどいHP https://www.shibuya-dai9.com/

出典:「三台のピアノ 親子三人の音楽人生」 著・松﨑俊三、松﨑フミ子
出典:「渋谷区青少年吹奏楽団 創立30週年記念誌」渋谷区青少年吹奏楽団育成会・渋谷区教育委員会

文:重久 直子

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