マッシュのオモハラおしゃれ散歩
2014.09.19

ファッション業界人が語る“私と原宿・表参道”(1) 青柳光則 さん

原宿・表参道と切っても切り離せないのがファッションです。そこで、このコーナーでは、この地域を舞台に活躍するファッション業界関係者にスポットを当て、街の魅力や思い出を語っていただきます!
今回のゲストは、’70年代からこの街を知る、ファッションディレクター、青柳光則さんです。

今回のゲスト 青柳光則さん/ファッションディレクター

青柳光則
青柳光則さん

青柳光則さん/ファッションディレクター
1960年 東京生まれ。専門学校卒業後、スタイル社「男子専科」編集部に勤務。1983年 フリーに。スタイリスト、ファッションエディターとして、ファッション誌、広告、芸能&アーティストの衣裳制作などを手掛ける。
1996年 東京・原宿にスタイリスト発信のセレクトショップ「Ka’eL」を開店。その後、オリジナルデザインのウエアを販売し、1999年東京コレクションでデザイナーデビュー。現在は、スタイリスト、ファッションエディターに専念。男性のライフスタイル全般(オートバイ、クルマ、旅、住宅、食、ペットなど)に分野を拡げ、多媒体で活動。
ご自身のホームページでは、自主企画のwebマガジン「AO LABO.」を発信中。
http://www.hamish.co.jp/

青柳さんが学生時代、仕事を通じて親しんだ街

今回、ご登場いただいた青柳光則さんは、1980年代からファッションの世界で活躍する人物です。
流行はもちろん、原宿・表参道の移り変わりも見続けてこられました。その時間のなかでも、多感な時代を過ごした‘70~’80年代の印象を一番強くお持ちのようです。青柳さんに、お話をうかがって、最初に名前が出てきたのが原宿セントラルアパートでした。ここは多くのファッション関係者にとっては思い出深い場所のようです。

青柳さん:
このエリアとの係わりは学生時代からでしょうか。そのころの主な目的は古着屋めぐりでした。仕事をするようになってからは、マンションメーカーに撮影用の商品サンプルを借りに出かけることが多かったですね。


セントラルアパートがあった場所。現在は東急プラザ 表参道原宿。

僕がこの街へ来るようになった頃、まず象徴として、原宿セントラルアパートがありました。
施設の存在はすでに知っていて、そこにどんな人たちが集まっているのかも知っていました。

セントラルアパートには、ファッション系のオフィスや学校、カメラマンの事務所などが入居していて、とにかく洒落たにおいがプンプンする場所。僕が通った東京スタイリスト学園も、かつてはセントラルアパート内にあったそうだけれど、僕が入学したときは、すでに新宿に引っ越してしまっていましたね。’80年代、アパレルメーカーのジュンがここにダンススタジオも運営していたこともあったような面白い建物でした。



東急プラザ 表参道原宿を建設中の様子。
  ここは時代の象徴とも言える場所。

その地下は、小規模のお店がたくさん集まった原宿プラザという名称のフロアだったことも覚えています。お店はどれも本当に小さくて(笑)。レジ一台と店長、お客さんひとりだけは入れるみたいな、ね。いかにも手作りのようなものを売っていて、みんな商品点数も決して多くないし、価格も高くなかったなあ。ここにしか、そうしたおもしろいものはなかったし。セントラルアパートを筆頭に、ファッションの街というだけのことはありました。新宿なんかには百貨店系列でDCブランドを集積したファッションビルがあったけれど、今思えば売れ筋中心の品揃えだったね。


原宿セントラルアパートについて
このアパートは1958年に共同住宅として生まれ(当時は隠田一丁目にあった)、1965年に住居とテナントを含めた施設に変わり、神宮前4丁目交差点(現在の東急プラザ 表参道原宿の場所)に移転したものです。当時はファッションや音楽、広告などの関係者が、公私を問わず集まる場所でした。1996年に解体。

’70年代から’80年代はテレビドラマの舞台にも

青柳さん:
この時代、よく使われていた言葉がマンションメーカー。起業し始めた人たちがマンションをアトリエ兼事務所として借りて、自分たちで洋服を作っていました。このマンションメーカーという業種は洒落た趣がありましてね。そんな仕事をしている人たちが、セントラルアパート1階にあったカフェ、レオンなんかによく集まっていたわけです。

そんな時代背景を表すテレビドラマもありました。’70年代、人気になった「あこがれ共同隊」です。
これは原宿・表参道が舞台で、デザイナーを目指している主人公役の郷ひろみさんや桜田淳子さんが出演しています。主題歌を山田パンダさんが歌っていて、その歌詞にも原宿・表参道が出てきます。山田パンダさんが、かぐや姫時代に歌ったアビーロードの街という歌にも、青山通りの名前が出てきますね。
ほかにも、このころ桃井かおりさん主演の「ちょっとマイウェイ」というドラマでは代官山が舞台。当時の代官山は、まだ閑静でオシャレエリアとして注目され始めたばかりでしたが、原宿・表参道ともリンクしていた印象があります。

当時の街の雰囲気は?

青柳光則さんが19歳の頃
元ピテカントロプス エレクトス 今はメキシコ料理店

青柳さん:
このころは、表参道に露天商も多かったんですよ。路上で絵を描いて売っている人もいた。いまは大きくなったアパレルの創業者の方に、露天でタイダイのシャツを売って、それで会社を作ったなんて人もいます。当時は原宿に来る人は大人だった。
’80年代の始めにはピテカントロプス エレクトス(のちにクラブDに変わる)というディスコというかクラブの先駆けでもあったし。とにかく、大人の街として、文化の発祥地だったように思います。
子供の頃は叔母が根津美術館のそばに住んでいて、車で叔母の家にいくときにVANの看板なんかを見ても、すごいなあと思っていました。とにかく子供には敷居が高い街でした。



青柳さんが19歳のときのお写真(’80年撮影)。
同潤会アパート前で撮影されたもの。
 
表参道ヒルズの端に再現された復刻版同潤会アパートの前に、当時と同じように立っていただきパチリ。19歳の青柳さんは、34年後、ファッションの現場で活躍して、同じ場所に立ち、撮影するとは、夢にも思っていなかったでしょうね。



今回のインタビューのために、表参道エリアで撮影した昔の写真を探していただきました。こちらは30歳代半ばごろのポラロイド。モデルの立ち位置を決めるために、モデルの代わりにテスト撮影されたものだそうです。当時は撮影がデジタルではなかったため、プロ用のポラロイドで、本番前に写真の雰囲気や構図を確認するのが一般的でした。

当時のファッションは?

青柳さん:
当時はおしゃれな人は切ったりだとか、テープを貼ったりだとか、洋服に手を加えていた。そして、そういう人のためのパーツも、何気に手に入ったんです。


表参道にまだ残る古着屋サンタモニカ

男子専科の仕事では、古着屋のサンタモニカ赤富士のお世話になることが多かったんですね。
一部の古着屋は、店内にミシンが置いてあって店の人が修理をしながら売っているのが普通でした。たぶん、売れるかどうかなんて考えていなかったでしょうけど、商品に手作りの良さが感じられました。きっと、店の人は“楽しい”の視点で動いていたのでしょう。露店商、マンションメーカー、テレビ、楽曲なんかも“楽しさ”で動く、そんな時代でした。



ラフォーレ原宿

‘80年代、できて間もないラフォーレ原宿(’78年開業)には、大人気だったメンズビギも入居していました。買い物なら、ラフォーレ原宿だけでも用は足りましたが、竹下通りには’50年代の雰囲気のお店、エスニックなお店、古着屋などがたくさんありました。とにかく、この街でしか買えないものばかり。いまはそうした街の情緒が、ずいぶんなくなってしまって残念です。


青柳さんも自分のお店を開業

そんな青柳さんは1996年、ついにご自分のショップ、Ka’ eL(カ・エル)を開店します。どんな思いを持って、オープンされたのか、気になります。

青柳光則
バーラジオ

青柳さん:
スタイリストが手掛けるセレクトショップのはしりのお店でした。神宮前2丁目に出店したところ、商店会に入らなきゃいけないっていうので、商和会に所属しました。昭和10年代築だか20年代築だかの古い物件で、上に大家さんが住んでいたところ。出店は原宿駅周辺でなくてもよかったけれど、神宮前であるべきだとは思っていました。

店は洒落者や文化人に人気のカルデサックやバー・ラジオ(現在は南青山3丁目にて営業中)と同じ道沿いでしたから、この周辺におもしろいお店を残しておきたいという気持ちもありました。家賃は10坪=20万円くらいで、決して高くはなかったと思います。その後、みるみるうちに、この地域の家賃も高騰していったし、これでは個人の趣味を打ち出すような面白いお店を続けていけません。結局、現在、この街では大資本のフラッグシップショップや、土産物屋のようなショップでないと、なかなか続けていけないんでしょう。Ka’ eLは物件の建て替えに伴い、立ち退きで2001年に閉店しました。

そして同潤会アパート(2003年解体)がなくなったのが、街の雰囲気を変えた最後のダメ押しでしたね。このころになると、この地域の家賃は異常に高騰していたし。かつての雰囲気が、殆ど現在に受け継がれていないのは残念です。海外には古いビルをリノベーション(改築)する文化がありますが、日本はすぐに取り壊して新しくしてしまうでしょ。


伝説のファッション誌「男子専科」がついに復刊

その後も、ファッションの現場で活躍を続ける青柳さんが、当時のスタッフとともに昨年、念願だった「男子専科」の復活を成し遂げました。そして、9月10日に、その第2号が発売になりました。一体、どんな内容なのでしょうか?


男子専科Vol.2( 980円 税込み)男子専科はなんと昭和25年(1950年)に創刊された日本最古の男性ファッション誌です。’90年代に惜しまれつつ休刊しましたが、2013年に復刊。

青柳さん:
編集部に在籍もしていましたが、退社後もフリーのスタッフとして男子専科のお手伝いをしていました。当時の編集長が商標を持っていて、ぜひみんなに名前を継承してほしいと依頼され、6~7年前にプロジェクトが始動。これまでにリーマンショックや震災もあり、進みかけた話が何度も途中でストップしました。それが、昨年ようやく復刊になったわけです。
男子専科では「ダンディ」を応援します。ダンディとはジェントルマンよりも遊びがあることだと思っています。上手な遊び方を知っているジェントルマンをダンディというわけです。
誌面で一番大事なことは、紳士の基本であるテーラード(伝統的で正統派のスーツやジャケット)のスピリッツを、いかに現代にマッチする形で継承していくか。他誌の成功事例をまねてもしょうがないし、カタログのようにはしません。読み物を充実させるほか、かつてつながりの深かったDCブランドを現代につなげる必要性も感じています。

似たような雑誌が多い中、独自性を打ち出そうとする姿勢が興味をそそります。今回の第2号の内容についても伺ってみました。

青柳さん:
今回は「英国・気分」と題した巻頭特集を打ち出します。英国だけでなく、そこから影響を受けたイタリアのテーラリングもご紹介。一方で、メイド・イン・ジャパンもクローズアップ。こちらではイン&ヤン(’80年代のDCブランドブームの立役者となったブランドの一つ)を設立した村岡勝重さんのスーツをクローズアップします。これこそ男子専科にしかできない企画でしょう。表紙にはアラーキーこと荒木経惟さんが登場します。荒木さんの撮影は、かつて男子専科の表紙を数多く撮ってくださっていた操上和美さんにお願いしました。ほかにも作家の佐山一郎さんのインタビューなどもあり、文化的な要素にもしっかり取り組んでいます。

かつての男子専科を知る世代も、知らなかった世代も、ファッション好きなら、これは読んでソンのない内容といえそうです!
男子専科 オフィシャルフェイスブックページ

全国行脚で全国のお洒落な男性も紹介中です

そして青柳さんが、雑誌MEN’S EX で、2年前から連載をスタートした「お洒落道場外伝」も好評です。こちらは青柳さんが、日本各地を巡り、地元のオシャレ自慢たちの着こなしを批評するというもの。青柳さんの来訪は事前に誌面で告知されており、ファッションチェックをしてほしい洒落者たちが多数会場を訪れるんだとか。
青柳光則のお洒落道場

青柳さん:
私は「KEEP CALM BE YOURSELF(あくまでも控えめに自己主張せよ)」をみなさんに伝えようとしています。
男のオシャレ上級者には、ひけらかすような装いじゃない人が多いんです。これは分かる人が見ないとその魅力が見抜けない。そんな小さいコミュニティの中で褒め称えあい、ときには異を唱える。そういう人たちにしっかり応えるのと同時に、情報が東京発信ばかりにならないために全国行脚をしています。いまでは、各地域で取材を通じたコミュニティが生まれたり、エリアを超えて、会場に駆けつける常連さんも登場したりと、活動は広がりを見せているんですよ。

いまも業界の最前線で活躍する青柳光則さん。そのファッションの原点は、原宿・表参道で過ごした青春時代にあったようですね。この街の奥はまだまだ深そうです! 次回もお楽しみに。

★青柳さんの思い出の名店★

レオン
セントラルアパート1階にあったカフェ。レオンはパリのカフェ風で、表に椅子を並べたりしていましたね。

カフェ スタジオV
美容室のスタジオVが、当時はカフェも隣で運営していて、そこは業界人の打ち合わせの定番的な場所でした。女性的な雰囲気のお店で、紅茶もアールグレーだったりジンジャーティーがあったりして、ポットで提供されていたのが印象に残っています。

バンブー
バンブーは’80年代には美味しいサンドイッチの名店として人気で、非常に原宿文化的なにおいがするお店でした。(※バンブーは、ブライダル対応のできるレストランとして現在も営業中)。

道楽屋
ここは、竹下通りの裏のほうに工場があって、出来上がると風呂敷に包んで、工場からお店に納品していたのを、よく見かけましたよ。洋服はいかにも手作りっぽい服だったね。

文化屋雑貨店
当時はチープシックがひとつのキーワード。僕がこのエリアに通い始めたころ、ファイヤー通りにあった文化屋雑貨店も原宿に引っ越してきた。見せ方も上手で、ここの社長が集めてくると、なんでも洒落て見えました。(現在も神宮前3丁目の店舗とオンラインストアで営業中)

クルーズ
アイビーⅠ型(本来はブレザーの形の名称ですが、熱烈なアイビーファンの意味でもある)の名物店でした。僕が仕事を始めた’80年代には、まだお店がありましたね。

ブティック寛斎
現在のユナイテッドアローズの近くにあって、ここもおもしろかったね。竹が生えていたり、置いてあるものも般若面柄のジャンパーやセーター、鯉のぼり柄のパンツだったりとか。意外に好きでした。

古着屋
赤富士はよく仕事で行きました。ほかにもサンタモニカ、原宿シカゴなんかも行く機会が多かったですね(サンタモニカと原宿シカゴはともに現在も営業中)。

原宿キャシディ
現在のキャシディは、’70年代にはミドリヤの名前でした。いいお店ですね。初めて足を運んだのは’80年。いまも価格設定が上野と変わらないし、非常にまっとうな商売をしているお店です。そして、ここにしかないものがあるお店でもあります。(現在は原宿キャシディに加え、姉妹店のキャシディホームグロウン、オンラインストアで営業中)

 


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