第3回「かつての渋谷川の流れを辿ってみた~渋谷駅周辺編~」
「暑さ寒さも彼岸まで」とは、昔の人はよく言ったもので、いつまで続くことかと思われた殺人的な残暑も、彼岸を過ぎてからというものぱったりと姿を消し、むしろ急激に涼しくなってしまったあおりを受けて、体調なぞ崩してしまわれた方も多いのではないでしょうか。かく言う筆者もその一人にて、シルバーウィーク中に訪れた急激な気温の変化に体が付いていけず、風邪気味のような状態がずっと続いております。読者諸兄もくれぐれもお体にはお気を付けくださいませ。
と、体調は万全の万全とは言えないものの、涼しくなってきたから歩き甲斐があると意気込んで臨んだ今回は、かつての渋谷川の流れを辿ってみたいと思います。
「渋谷川って何?」と思った方のために補足すると、前回の「明治神宮とキャットストリートの意外な関係ってなに?」でも紹介した通り、渋谷から原宿・表参道にかけて、かつては川が流れていました。いや、見方によっては今も流れているとも言えます。
その渋谷川の流れを辿って、まちの歴史を探ってみようということです。これから何回かに分けて、渋谷川巡りをお届けしていきます。
まずは、渋谷川が地上に顔を出すその場所から始めます。
渋谷駅と渋谷川
ということで、特派員のまあやさんと渋谷駅東口にて待ち合わせ、渋谷川が地上に顔を出す地点へと向かいます。
歩道橋で国道246号線を渡ると、書店のすぐ南に水路が見えます。これが、地上に現れた渋谷川です。ビルに挟まれて申し訳なさそうにちょろちょろと流れていますが、これでも立派な川なんです。
川の手前の道路は何だか橋のよう。と思って、横から見てみると確かに橋です。欄干にしっかりと橋の名前が刻まれています、というかはめ込まれています。その名も「稲荷橋」。本連載でお世話になりまくりの参考文献、『「春の小川」はなぜ消えたか』(著・田原光泰)では、橋の名前の由来を次のように説明しています。
稲荷橋の名前は、昭和三十年代まで、この橋のそばに田中稲荷があったことに由来する。幼少の頃を渋谷で過ごした作家大岡昇平は、大正時代、この稲荷橋付近に住んでいた。その当時の様子は、自伝的作品『幼年』に詳しい。それによれば、稲荷橋から一〇mほど下手のところには、川の真上に五、六軒の商家が建ち並んでいたという。
「五、六軒の商家」とは、現代の賑わいとは比ぶべくもありません。お稲荷さんで商売繁盛を願ったのでしょうか。
橋を南に覗き込むと、両岸に聳えるビルが迫ってくる感じがします。渋谷川も肩身が狭そうです。稲荷橋のすぐ下流には、水車が掛けられていました。その名も「深川の水車」。深川さんが所有していたからだそうです。
実は、水車が掛けられていたのはここだけではありません。かつて渋谷川には多くの水車が掛けられていました。『渋谷の水車業史』(東京都渋谷区立白根郷土文化館)によれば、明治30年代から40年代初め(1890年代の終わりから1910年頃)には、渋谷区域内に50近い数の水車があったということです。
水車は何のためにあったのか?主には米搗き・精米です。水車の動力で米を搗いたり精米したりしていたのです。ですが、東京の外れに位置していた渋谷町(!)にも、文明化の流れはじわじわと押し寄せます。電化が進み、明治42(1909)年には各戸に電燈がつくようになります。渋谷川沿いで静かにリズムを刻んでいた水車は、大正初期(1915年頃)までにほとんど姿を消していきました。
ちなみに、当時の渋谷駅は今よりだいぶ南にありました。埼京線のプラットフォームがある辺りです。ここ稲荷橋から、渋谷駅を行き交う人の流れも見えたやもしれません。
橋を反対に北に向けば(写真下右)、人と車が行き交う雑踏の下を、今も渋谷川が人知れずひっそりと流れています。頭では分かっていても、ここにかつて川が流れていた様子はなかなか想像できません。その痕跡を探しに、ここから渋谷川を遡って辿っていきます。
歩道橋を渡って渋谷駅方面に戻ると、何やら怪しげな看板を発見。この付近に、かつて渋谷川が流れていたこと、渋谷区初の公立小学校があったことを記しています。
ここには書かれていませんが、この小学校の近くには、「堀之内橋」という橋もありました。246号線は、「矢倉沢往還」と呼ばれた江戸時代から続く道です。別名「大山街道」とも呼ばれ、丹沢山系の大山へ詣でる道として人々が行き交ったと言います。川が地上から姿を消したことを知ったら、当時の人はびっくりするでしょうか。
東急百貨店東横店東館の秘密
渋谷駅に接して立つ東急百貨店東横店東館は、「川の上に立つ百貨店」と紹介されることがあります。そう、地下には渋谷川が流れているのです。
食料品売り場は、「デパ地下」にあるのが相場とされています。でも、ここ東館は、1階に食料品売り場の「東横のれん街」が陣取っています。
昭和9(1934)年に東館の原型たる「東横百貨店」ができたとき、パンフレットの地下フロアの平面図には、渋谷川が流れていることが記されていました。東館から地下フロアが消滅した経緯は定かではありませんが、当時の人には渋谷川が身近な存在だったことが、このエピソードから窺えます。
ここ「のれん街」の近くにも、水車が掛けられていました。その名も「宮益の水車」です。先ほど触れた渋谷区初の小学校は、この水車の収益で運営していました。
東急百貨店東横店と渋谷川のつながりを示す場所をもう一つ紹介しましょう。
「東横のれん街」の北側に、通路を挟んで「アーバンコスメティクス」というゾーンがあります。東急東横線の2階改札から階段を降りた先にある化粧品売り場です。ここにあるエスカレーターが、ちょっと不思議な構造をしています。エスカレーターに乗るのに階段を数段昇らなければならないんです(写真下左・真ん中)。
こうなったのも、渋谷川の仕業です。床下に川が流れていて、本来なら地下に置くべき機械を埋め込めなかったということです。それで、上に盛り上げたんですね。
百貨店のフロアマップを見ると(写真上右)、東館にだけB1フロアがないのが物寂しい感じがします。ここに、「渋谷川」と描き込んでおいてほしいものです。
地下連絡通路の謎
東館を東口バス乗り場の方に出てみましょう。目の前に、地下鉄9番出口があります。9番出口の階段を地上から降りていくと、左手が壁で遮られています。ここを左に行ければ、ハチ公口方面に出られるのに……。
渋谷の地下は、これだけ大きな駅であるにもかかわらず、ハチ公口と東口の連絡が悪いことに、不便を感じている人も多いかもしれません。それを遮っているのも、やはり渋谷川です。地図を見ると、その位置関係がよく分かります。9番出口階段下の壁の先には、渋谷川が流れています。壁に耳を当てて、川音が聞こえるかどうかは、やってみてのお楽しみです。
ちなみに、どうしても地下で東口からハチ公口に回りたい場合は、9番出口の壁を背に、階段を地下2階まで降りていけば何とかなります。ただ、ハチ公口の地下街「しぶちか」は地下1階にあるので、降った分だけまた昇らなければならない面倒がありますが……。
来年には、地下鉄副都心線と東急東横線が直結します。東口の地下改札の乗降客数が増えると思われますが、そうなっても、渋谷川がある限り、地下の連絡が便利になることはないでしょう。
古くて新しい渋谷の街
東館を北に回ると、道を挟んでぽっこり建物の隙間が見えます。これこそ、かつて渋谷川が流れていた名残です。
そして、この手前の道路には「宮益橋」が架かっていました。「宮益坂」の下にある橋だから「宮益橋」です。『江戸の坂 東京の坂(全)』(横関英一・著、ちくま学芸文庫)や『坂の町・江戸東京を歩く』(大石学・著、PHP新書)によれば、「宮益」の由来は、現在も坂の途中、渋谷郵便局の隣にある「御嶽神社」にあるということです。お宮さんだから「宮」というのはいいとして、「益」の由来がよく分からんと思うのは小生だけではないでしょう。
宮益坂の頂からは、富士山がよく見えたということです。そのため、宮益坂には「富士見坂」の別名があり、「宮益橋」にも「富士見橋」の別名があったと『江戸の坂 東京の坂(全)』は記しています。幕末の浮世絵師・歌川広重は、『不二三十六景』の「東都青山」にて、宮益坂から見た富士の姿を描いています。『江戸の坂 東京の坂(全)』の著書・横関氏(1900-1976)は、東横デパートができてから富士山が見えなくなったと嘆かれています。空が広かった頃の東京、江戸はどんな風景だったのでしょうか。
ちなみに、宮益坂を背にして、宮益橋の先にあるのが「道玄坂」です。「109」へと続く、若者の街・渋谷の象徴のようなこの坂も、1500年前後からこの地名があったとされる古くからある坂です。人ならぬ街も見かけによらないということです。
実は、稲荷橋からここ宮益橋までは、地上から姿が見えなくなっているものの、行政区分上は今も立派な「渋谷川」です。ここから上流は、行政区分上も川ではなくなり、ほとんどが下水道として扱われています。
それについても詳しく触れていきたいところですが、ここから先は次回のお楽しみ。とういことで、今回の旅――と言っても距離にしてわずか250メートルほどですが――を地図にまとめてみました。復習がてらにご覧ください。
- 参考文献
- 『「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』(田原光泰・著、之潮(コレジオ))
- 『「春の小川」の流れた街・渋谷――川が映し出す地域史――』(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館)
- 『渋谷の水車業史』((東京都渋谷区立白根郷土文化館)
- 『地べたで再発見!「東京」の凸凹地図』(東京地図研究社・著、技術評論社)
- 『江戸の坂 東京の坂(全)』(横関英一・著、ちくま学芸文庫)
- 『坂の町・江戸東京を歩く』(大石学・著、PHP新書)
- 『古地図ライブラリー11 江戸切絵図・富士見三十州輿地全図で辿る 北斎・広重の富嶽三十六景筆くらべ』(人文社)