表参道 歴史にゃんぽ
2015.03.24

金王八幡宮 (2)~渋谷にあった渋谷城と、城主の渋谷氏を探る!~

渋谷に『渋谷城』というお城があったのをご存知ですか?

実は平安時代末期から鎌倉時代にかけて、渋谷には渋谷城というお城があったにゃん!
渋谷城の城主は渋谷氏です。城主が渋谷氏だったのでお城が渋谷城と呼ばれるようになり、地名も渋谷になったんだにゃん。

渋谷城はここにあったにゃん!渋谷城はここにあったにゃん!
2020年東京オリンピックに向けて再開発中の渋谷駅2020年東京オリンピックに向けて再開発中の渋谷駅

渋谷城はどこにあったの?!

渋谷城は今も『金王八幡宮』に、その面影が残っています。

渋谷氏は金王八幡宮をお祀りする渋谷城を拠点に、武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領地としていました。
現在も金王八幡宮は、八幡通り(旧鎌倉街道)、道玄坂(旧大山街道)、青山通り、宮益坂を中心に、渋谷と青山の總鎮守として崇められています。

都会のオアシス・金王八幡宮都会のオアシス・金王八幡宮
今も残る渋谷城の石垣の石今も残る渋谷城の石垣の石

【参考リンク】
金王八幡宮ホームページ

渋谷の名前の由来

今から約千年前の永保3年~7年(1083-1087年)、東北地方で『後三年の役』が起きました。 源義家のもとで平武綱は、仙北金沢の柵を攻略し、河崎土佐守基家(かわさきとさのかみもといえ)という名と、武蔵谷盛荘七郷を領地として賜りました。

義家は「この勝利は基家の信奉する八幡神のご加護なり」と、基家の奉持する秩父妙見山(現 武甲山)の月旗をもって渋谷城内に「八幡宮」を移築しました。これが現在の『金王八幡宮』なんだにゃん。

その後、河崎基家の子の河崎重家が御所(天皇のお住まい)で盗賊を退治し、その手柄によって「相模国高座郡澁谷庄」「澁谷」という姓を賜りました。このことによって領地の武蔵谷盛庄も渋谷と呼ばれるようになり、居城も渋谷城と呼ばれるようになったにゃん。

【参考リンク】
『金王八幡宮(1)~実は『おもてサンド』も氏子です!~』

天然の要害だった渋谷城

渋谷城は渋谷の地形を上手く利用した天然の要害で、現在の渋谷警察署、ヒカリエ、クロスタワーを含む一帯にあったにゃん。
※資料や地名等を参考に線引きしたもので、正確な規模は不明です。

東京には、千代田区、港区、品川区、目黒区、世田谷区、新宿区、渋谷区を含む一帯に『淀橋台地』と呼ばれる台地が広がっています。その台地が渋谷川によって長い時間をかけて削られ、“谷”が出来上がりました。
渋谷川は、新宿御苑の辺りからキャットストリートの下を流れ、渋谷駅の下を通って山手線に沿って恵比寿方面に向かって流れています。この渋谷川が、長い年月をかけて渋谷の谷を作ったのです。

【参考リンク】
ウィキペディア『渋谷川』
【シブヤ大学授業レポ】みんなで夜歩く。日の出を目指す。 ~渋谷川上流から河口まで~
歴史ぶらり旅 第3回「かつての渋谷川の流れを辿ってみた~渋谷駅周辺編~」

今も昔も重要拠点の渋谷

渋谷城はこの淀橋台地の最先端、渋谷の崖の上に築かれました。
崖の上なので敵の攻撃を防ぐことができ、また渋谷川を利用して、船で人や物を運ぶのにもとても便利でした。
またこの場所は、幕府のあった鎌倉から諸国を結ぶ『鎌倉街道』(現在の旧鎌倉街道、八幡通り)と、庶民に大人気だった『大山参り(おおやままいり)』(伊勢参りや富士講のように、神奈川県の大山を信仰した)のための『大山街道』(現246号線・道玄坂)のすぐ側でもありました。

【参考リンク】
『丹沢大山国定公園大山ケーブルカー』(大山観光電鉄株式会社)
『丹沢・大山歴史街道ものがたり』(産業能率大学)

渋谷城のその後

渋谷城は地形にも恵まれ、川や街道といった交通の便にも恵まれた、とても重要な場所にあったにゃん!

でも渋谷城は室町時代にはいった大永4年(1424年)、北条氏と上杉氏の合戦で、北条軍によって焼き払われてしまいました。

現在の金王八幡宮の社殿は、江戸時代にはいった慶長17年(1612年)、徳川家光が三代将軍に決まったことを祝い、乳母の春日局と守役の青山伯耆守忠俊が奉納したものです。江戸時代初期の建築様式をとどめた大変貴重な建物で渋谷区の有形文化財にしていされているんのにゃん!

金王八幡宮の山門
渋谷区指定有形文化財の解説があるにゃん!

渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)の活躍

平安時代末期に活躍し、『平治物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』『平家物語』にも描かれ、江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃のヒーローだった渋谷金王丸昌俊(しぶやこんのうまるしょうしゅん)
金王丸は、御所で盗賊を退治し『渋谷』の姓を賜った渋谷家重の子として、永治元年(1141年)8月15日、渋谷城で生まれました。

金王八幡宮の名の由来になったこの金王丸の活躍を、『平治物語』などから簡単にご紹介するにゃん。

金王丸昌俊金王丸昌俊
歌舞伎・浮世絵でも人気でした歌舞伎、浮世絵でも大人気でした

1156年『保元の乱』が起きました。
17歳の金王丸は自分の姿を木像(※1)に彫って母への形見とし、源氏の棟梁・源義朝の元に馳せ参じました。

『保元の乱』で源氏は勝利し、金王丸も大功をたてその名を轟かせました。
しかし1159年の『平治の乱』で源氏は平氏に敗れてしまいました。

源義朝の一行は、金王丸を含めたった4人で都から東国に落ち延びますが、その途中、尾張国野間(今の愛知県知多郡)の長田忠致の館で悲劇は起こります。
金王丸は常に刀(※2)を携え義朝につき従っていたのですが、義朝の入浴中、長田の家来が義朝の服を隠し、金王丸が服を探している間に義朝は長田の家来に襲われ、殺されてしまったのです。

金王丸は義朝の首を取り戻そうと奮闘しますが叶わず、義朝の首は獄門にかけられてしまいました。金王丸は義朝の最後を都にいる常盤御前に伝えると剃髪し、名を土佐坊昌俊と改めます。そして20年以上義朝の菩提を弔いながら、義朝の遺児の頼朝と義経を影で支え続けました。

境内にある金王丸御影堂
昨年の例大祭には、たぬも登場したにゃん!

義朝の死後は平清盛が実権を握り「平氏にあらずんば人に非ず」と言われた平家全盛の時代が続きました。しかし清盛が亡くなると源頼朝が平家打倒を掲げ挙兵します。
もちろん土佐坊昌俊も頼朝の元に馳せ参じました。
頼朝の弟の義経の目覚ましい活躍もあり、源氏は1185年の『壇ノ浦の戦い』によって平家を滅ぼします。

しかしその後、義経に謀反の疑いがかかると頼朝は土佐坊昌俊に義経を討つよう命じました。義経を討つことなどできない土佐坊昌俊は、自ら義経に討たれる道を選び、主人への忠義と渋谷一族の繁栄を願いながら、武将らしい立派な最期を遂げたのでした。

源頼朝は「忠節を尽くした金王丸の名前を後世に残すべし」との厳命を出し、鎌倉・亀ヶ谷の自分の屋敷にあった『憂忘桜』を金王八幡宮に移植させ、『金王桜』(※3)と名付けました。金王桜は江戸時代には江戸三名桜の一つと称され、今も代々実生より植え継がれ、守り継がれています。

(※1)この時、金王丸が彫った木像は、今も金王八幡宮の『金王丸御影堂』に安置されており、毎年3月の最終土曜日に特別公開されています。 (※2)この時金王丸が所持していたのが『毒蛇長太刀』と呼ばれる太刀で、今も『金王八幡宮』に伝わっています。「鉾先に向かいその刃風に触れる者生きて帰る者なし、鰐口は遁れるとも毒蛇の口は遁れ難し」との意味があるそうです。 (※3)『金王桜』は長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重の桜が入り混じって咲く大変珍しい桜です。

全国に広がった渋谷氏の領地と一族の繁栄

渋谷氏は、現在の渋谷区以外にも、神奈川県川崎市、神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市一帯、そして鹿児島県にも領地を持っていました。

川崎の渋谷氏

渋谷氏は、河崎基家という名前からもわかるように、神奈川県川崎市(武蔵国橘樹郡の南部)にも領地を持っていました。
河崎基家の名が川崎市に、その子の渋谷重家の名が渋谷区になったなんて面白いにゃん!

大和・藤沢・綾瀬にまたがる渋谷氏

また、現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市にまたがる広大な地域に『相模国高座郡渋谷荘』という荘園がありましたが、ここも渋谷氏の領地だったにゃん。
現在も小田急江ノ島線『高座渋谷駅』に、渋谷の地名が残っています。この辺り、“渋谷さん”という名字の方もとっても多いそうなんだにゃん。

『吾妻鏡』によると、重家の子の渋谷重国が『相模国高座郡渋谷庄』を与えられ、そこに早川城という城を築城したそうです。
現在も綾瀬市の『城山公園』に、この早川城の堀切や土塁が残っています。

渋谷区の渋谷城と綾瀬市の早川城、同じ渋谷氏のお城として交流が生まれると嬉しいにゃーん!

九州薩摩の渋谷氏

渋谷重国の後は二男の高重が家督を継ぎ、早川高重と名乗りました。しかし1213年の和田合戦で討死し、渋谷氏の勢力は一時衰えてしまいます。

しかし重国の長男の渋谷光重が1247年の宝治合戦で活躍し、九州の薩摩(鹿児島県)に新たな領地を賜りました。

光重には6人の息子がいました。長男の渋谷重直は相模渋谷荘に残りましたが、その他は北薩摩(現在の薩摩川内市)に移り、二男・実重に東郷を、三男・重保に祁答院を、四男・重諸に鶴田を、五男・定心に入来院を、六男・重貞に高城の地頭職が与えられました。5人の兄弟はそれぞれ治めた地名を名字にし、薩摩渋谷氏、または薩摩五宗と呼ばれました。

薩摩渋谷氏はその後も活躍しますが、江戸時代に入ると島津家の家臣になりました。

そして明治時代になると、薩摩渋谷氏の東郷氏から 東郷平八郎が現れ、日露戦争(1904-1905年)でロシアのバルチック艦隊を破るなどの大活躍をしました!

東郷平八郎はイギリスのネルソン提督(1758~1805年)と共に、最も傑出した海軍提督と言われ、世界中の軍人に尊敬されています。アメリカのミニッツ提督(1885~1966年)も東郷元帥を終生の師と仰いだそうです。

そして東郷平八郎元帥の死後、祖先の地である渋谷に、東郷神社が建てられました。

平安時代、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代と活躍した渋谷氏は、明治時代も英雄を輩出したんだにゃん!

バルチック艦隊を破った戦艦三笠バルチック艦隊を破った戦艦三笠
連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥

【全国に拡がる渋谷氏一族まとめ】
<神奈川県川崎市の渋谷氏>
平安時代末期。武蔵野国橘木郡河崎。河崎基家。

<神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市の渋谷氏>
鎌倉時代~室町時代。相模国高座郡渋谷荘。渋谷国重。
※綾瀬市の城山公園には早川城があり、今も空堀の跡が残っています。

<鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)の渋谷氏>
鎌倉時代中頃。薩摩。
渋谷光重の二男・実重が東郷、三男・重保が祁答院(けどういん)、四男・重茂(重諸)が鶴田、五男・定心が入来院、六男・重貞は高城を領地とし、渋谷五宗と呼ばれた。

【参考リンク】
川崎市高津区にある、橘樹神社ホームページ
『城山公園』(綾瀬市ホームページより)
記念館「三笠」明治の誇りと気概

3月28日、29日に『金王桜まつり』が開催されます

もうすぐ春だにゃん!
渋谷の金王八幡宮では、3月28日(土)、29日(日)に『金王桜まつり』が開催されます。
境内にある金王桜は、渋谷金王丸の忠誠を後世に伝えるため、源頼朝が鎌倉亀ヶ谷の館からわざわざ移植させた桜。一枝に一重と八重が混じって咲く大変珍しい桜で『江戸三銘木』にも数えられました。現在も渋谷区指定天然記念物なんだにゃん。

そして!年に一度の大変貴重な『金王丸尊像御開帳』が、3月28日(土)午前11時30分から行われます。この木像は金王丸17歳の時、源義朝に従い『保元の乱』(1156年)に出陣する際、形見として自身の姿を彫り母親に残したものです。
850年前の、ふるさと渋谷の勇者の息吹を感じ、是非その御利益を授かって欲しいんだにゃん!

『金王桜まつり』には、おもてサンド宣伝部長のたぬもお祭りを盛り上げるため参加するにゃん!遊びにきて欲しいにゃん!

文:重久 直子

金王桜まつり金王桜まつり

金王八幡宮
住所:東京都渋谷区渋谷3丁目5番12号
アクセス:渋谷駅(東口)より徒歩5分
電話番号:03-3407-1811
HP:https://www.konno-hachimangu.jp/

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